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仏像マニア
2020/08/30(Sun)
仏像
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不動明王
2012/09/18(Tue)
不動明王はサンスクリット語でアチャラナータ(阿遮羅嚢他)といい、意味は「動かない守護者」もしくは「動かないものの守護者」です。

本来、この名前は古代インドにおいてシヴァ神を意味していましたが、仏教に取り入れられてからは、密教において、大日如来が衆生の教化のため忿怒身に姿を変えた大日如来の使者としての性格が与えられ、数ある明王の中で最高のものとなりました。


不動明王は一面二臂で、顔は忿怒の相。
長髪を束ねて左肩に垂らし、頭頂に莎髻という特殊な髷を作り、または、頂蓮という蓮華を戴いています。額には波のようなしわが三本刻まれています。
左右の目は天地眼と言って、天と地の両方を見ています。また、左右の犬歯は右を上に、左を下に突き出しています。

恐ろしい顔とは対照的にふっくらとした子供のような身体をしているのが特徴で、これを「童子形」と呼んでいます。これはひとたび仏の道に入った人には、子供のような素直な態度で従順に使えることを示しています。

また、右手に剣、左手に羂索という縄を持っています。賢は知恵の鋭さの象徴。あるいは煩悩を破壊する鋭利な剣。羂索は煩悩を縛り付ける縄です。
台座は岩座が一般的で、光背は火炎で、迦楼羅に似ていることから「迦楼羅光」とも呼ばれています。

また、衿迦羅・制多迦の2童子が不動明王の脇侍として配されることが多くあります。


不動明王を現存する作例において眺めてみると、インド・中国の作例は今日わずかしか確認できないのに対し、我が国においてのその数は各時代を通じ非常に多く残っており、その信仰がいかに盛んであったかがうかがわれます。我が国における不動明王信仰の本格的到来は、平安時代の初めに真言宗を開いた空海によってであり、中国留学からの帰国後であったとみられています。
すなわち、空海による承和6年(839年)に開眼した京都・東寺講堂の諸尊のうち、五大明王の中尊としてつくられたものが、その本格かつ現存最古のものです。

不動明王-東寺
東寺-不動明王坐像

不動明王-東寺2
東寺-不動明王坐像

不動明王-大聖寺
大聖寺-不動明王坐像
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勢至菩薩
2012/03/06(Tue)
勢至菩薩(梵名マハースターマプラープタ)は、正しくは、大勢至菩薩と言い、知恵の偉大な力で人々の迷いを取り除く菩薩です。
観音菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍となり、阿弥陀三尊を形成していることで知られています。
観音菩薩が宝冠の前面に化仏を表すのと対照的に、勢至菩薩の場合は水瓶を付けることが多いです。

『観無量寿経』に説かれていますが、観音菩薩の慈悲に対して、知恵の光を持ってあまねく一切を照らして人々を救済するため、観音菩薩ほど信仰を得られておらず、独尊像も少ないようです。

薬師如来本願功徳経では、八大菩薩の一尊。

浄土信仰の高まりとともに流行する来迎形式の阿弥陀三尊の場合では、観音菩薩が死者の霊をのせる蓮台を持つ姿に、勢至菩薩が合掌をする姿で作られ、その姿勢には立像・坐像のほかに跪像も見られます。

勢至菩薩跪像2
三千院 勢至菩薩跪像(阿弥陀三尊の左側で合掌している像)
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普賢菩薩
2012/02/07(Tue)
普賢はサンスクリット語でサマンタバドラ(三曼多跋陀羅)と言います。
サマンタは「普」、バドラは「賢(吉祥)」で、吉祥(良いこと)が普く行きわたるという意味です。

大乗仏教の菩薩の中でもとくに仏の理性を示す菩薩であり、諸菩薩の上位とされています。
文殊菩薩とともに釈迦如来の矜持としても表わされています。

慈悲をつかさどり、女人往生を説いたため、極楽往生を願う女性たちの篤い信仰を受けました。


普賢菩薩の像は、合掌し白象の背上の蓮華座に結跏趺坐するものが多く、まれに蓮華や如意・経典などを持つ場合も見られます。とくに『法華経』を信仰が高まった平安時代以降の制作になる作例が多いです。

普賢菩薩
大倉集古館 木造普賢菩薩騎象像

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仏像の誕生と伝播
2011/03/30(Wed)
仏教徒がその信仰に基づいて造形活動を始めたのは、釈迦の遺骨を祀ったストゥーパ(仏塔)の造立ですが、仏像の製作はすぐになされたわけではありません。

釈迦が初めて具体的な姿で、すなわち仏像として登場するのは1世紀中ごろのガンダーラ地方です。
インドから北に向かった仏教文化とヘレニズム文化が融合し、ギリシャ・ローマの造形技法の影響を受けて、初めて人間的な姿の仏像が誕生したのです。


その後、2世紀には、マトゥラーでも仏像が作られ始め、ガンダーラ仏の西方色の強い様式に比して、純インド的な表現が行われました。
さらにマトゥラー仏は、5世紀にサールナートを中心として、均整のとれた美しい体躯と薄く等間隔に刻まれた衣のひだの表現を持ったインド仏像彫刻の完成形とも言うべき仏像様式に展開しました。


インドからの仏像の伝播は、南インドを経てスリランカ、さらには東南アジア諸国へと至る海上ルートと、インドから北へと伝わり、シルクロードを経由して東に伝わるルートとが大きな流れですが、さらに時代を経て、7世紀、後期密教の頃にはチベットにも伝えられました。


我が国へは、インドからシルクロードを経由するルートにより、中国・朝鮮半島を経て伝わりました。中国に仏教が伝わったのは、、2世紀ごろのことで、北魏の時代には大規模な仏寺や石窟寺院が造営され、唐の時代には仏像の表現に人体の理想美が追求・反映されました。
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